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2013年1月28日月曜日

卒・修展三日目 ゲスト:後藤繁雄さん

イベントも後半戦へと突入します。
三日目のゲストは編集者、そしてクリエイティブディレクターとして活躍される後藤繁雄さんです。
本日は、学部生と修士合わせて5名の作品講評を行っていただきました。
本ブログでは後藤氏の言葉にカギカッコを付ける形で、会話形式の表記も交えつつ簡単にご紹介させていただきます。


まずは東京都美術館の学部生の講評です。



一番手は中村奈緒子さん。タイトルは「こんにちは」。

はじめに皆さんコンセプト等を説明してくださいます。
中村さんは最初にコンセプトありき、ではなく、手を動かしていくことでだんだんと発想が生まれ、またそれを作り上げてゆくというプロセスを踏んだ作品制作を行っているそうです。
今回は板に穴を開けてみたところからはじまり、穴を開けたら穴を埋めたい衝動が生まれ、今回のような作品に仕上がっていったようです。
穴にすずらんテープを通してみたりホースを通してみたり、裏板との間を開けて普段は見ない糸がのびる空間を作り出したり、様々な方向に発想は転換されていました。
後藤繁雄さんは「発想のプロセスが空間化されていてそれが見える。制作プロセスを作業量で勝負するのはいい方法論だと思う」と評価。

また、描かれるモチーフについて後藤氏からの質問が飛びます。



後藤氏「花に水をやる農夫のようなモチーフはどこから?」
それは中村さんが幼い頃見たホームレスの女性がお花を育てている風景の記憶と繋がりがありました。
後藤氏「モチーフの拾い方に、先端生の人たちは共通点があるね。」
民族衣装を着た子どものモチーフは、かわいいけれど現代的ではない服というイメージから民族衣装へと発展しています。扉を行き来する男性のイメージは、とある映画の些細なワンシーンに惹かれたことが発想のきっかけだそうです。

後藤氏「中村さんにとって作る事とはなんですか?表現する、ということよりも作ることについて。」
中村さん「作る理由は掘り起こせばなんでもあるといいます。ただ、ずっと手を動かしていたい。」



最後に後藤氏からアドバイスがありました。
後藤氏「発想のプロセスは面白いが、小鳥の模型が取り付けられていたり紙に書いたイメージが貼ってあったり、思いつくものが増えてゆく・付け加わってゆくことで作品が良くなるのかどうかというのは別の問題がある。ルール、ここで止めよう、というのが必要だ。洗練されるかどうかではなく、作品を作る上での『甘え』をストップしてみるといい。」
中村さんも深く頷いておりました。


とにかく手を動かしていたいという中村さん。作業量は作品から強く伝わってきます。
後藤氏「作るのが好きなんだな〜」と感心。



お次は三嶋一路さんの「L.T.C.E.M」です。



三嶋さんは美術館に展示できないものを写真によって既知作品にしています。
ルールを更新していくことがルールである美術史。美術史そのものを写真にうつし込む目的があるのだそう。また、タイトルはマルセル・デュシャンの「L.H.O.O.Q」をもじっています。
後藤氏は「わからないと思うよ」とタイトルについて指摘。
三嶋さんはそこにミスリードの可能性を受け止める意志というのを込めていると言います。デュシャンのことや美術の知識を持つ方ではない一般の方々にも、最低限の情報、つまり東京都美術館において展示できないものを写真作品として展示しているということが伝われば良い。写真を6点に絞っていることはうまくいっているかいないかは難しいが、整然とした状態を目指したのだそう。
理解する部分と誤解を受け止める部分。そもそも作品の「理解」について、後藤氏から鋭い問いかけがあります。
後藤氏「誤解の生じる比率が少ないところ、『正解』がハッキリし過ぎているのはつまらないのでは?正解と誤解がレイヤー化されている方が面白いのでは?撮影が丁寧なのが弱いところでもある。ストレートにざっくり撮影した方がアプローチしてる感が出そう。これはなんだかすかしている感があって、破壊力が出ていない。丁寧にまじめにはめ込もうとしているように見える。」
コンセプトと作品の見え方や表現の仕方に関する距離感や、作者の意図と鑑賞者からの見え方に関する難しい問題が浮き彫りになりました。



次は森未央子さんの「東京白昼夢奇譚」。




こちらは漫画の一枚一枚が並べて展示されています。東京の白昼夢に迷い込み、東京のいつも見ている部分と違う一面というのと出会っていく少年のファンタジー作品。
後藤氏「”漫画”なのか”文学”なのか”サブカル”なのか”アート”なのか、どこを目指している作品なの?」
森さんにとってそれはマーケットの違いでしかなく、表現には変わりがないため、どのように取られても構わないのだそう。
後藤氏「モチーフでアニメや漫画を扱うことが当たり前と思われているが、”アートの強さ”でいうと、うまくいっている人は少ない。表現には変わりないというのは確かだが、放っておいてイラストがアートとして拾われて評価されることはまずない。偶然評価されるということは起きない。アートとして評価されたいと思う部分があるのなら、それを意識すべき。漫画による表現は既視感があり、かぶることも沢山ある。ストーリーものなら厳しくそれを考えなければならない。森さんの作品からは昭和のような雰囲気がある。サブカルチャーとして、アナログ表現でノスタルジックに、アンダーグラウンドな世界を作り出していることは面白いと感じる。」



作家としての厳しい現実、覚悟や意識の作り方は大切なことなのだとあらためて気付かされる指摘でした。




次は片山慈子さんの「歩道と流転の引継ぎ」です。



こちらは階段状になった立体がペントミノになっており、側面や上面に世界地図が描かれている作品。なんとこちらは鑑賞者自身がそれぞれの立体を移動させ、様々に構成を変えられるのだそう。その資料としてあらゆる形のペントミノの写真が壁面に並列されています。
片山さんは”人が共有できるもの”とはなんだろうと考えているのだそう。”楽しい”という一つをとって考えてみても、それぞれの経験等に則してあらゆるバリエーションを持つ”楽しい”という感覚を、本当に共感しているかを確認することはでいない。しかし、人は”1人”という単位が絶対的に同じである。そこは共有できる唯一の部分ではないか。そして”楽しい”のバリエーションにも制限はある・・。そこからこのような世界地図、ペントミノを鑑賞者に動かしてもらう、階段状になっている、等の要素が見出されていったようです。
ただそのようなコンセプトを成立させるために、この表現形態がふさわしいのかどうか後藤氏の指摘が入りました。
後藤氏「写真の資料のほうがわかりやすい。キューブだけじゃまずい。バリエーションとして示したいのだろうが、立体はアーキテクチャなので、可動性、流動性、可塑性、変形性というのを持つかどうかわかりづらい。また”表現”が入ってきていることはよいのか。手書きで世界地図を、赤色だったり様々な色で描いているが、地図の描き方に意図があるのかないか、それがわかりにくくしている気がする。もっとクールでよいのではないか。観念を具現化する上で余計なファクターが入り過ぎのように見える。」



見え方の意識、鑑賞者の捉え方というのを作家は常に考えながらつくっています。自分の意図、鑑賞者からの意図、それを図りながら作品を作り上げていくことの困難に、どの作家もぶつかっていることが見えてきました。





次は場所を大学美術館に移し、修士の講評を開始。

野口健吾さんの「庵の人々」。




ホームレスの方々に取材をし、写真と映像によってその情景をとらえた作品です。
彼は大学では社会学を勉強していたそうです。時代の鬱屈というのを誰もが感じているであろう中で、人間の生きる理由や日本人の死生観が考えており、そこからホームレスという、いわゆる普通の生活とは引き離された彼らが、いったいどのように生きることを捉えているのか、それを追って写真作品に落とし込んでいます。
後藤氏からは写真作品と映像作品どちらがメインなのか問われました。野口さんは写真をメインにしているとのこと。しかし写真作品の距離感と映像作品の距離感は明らかに違っています。



後藤氏「ホームレスの方達を撮影させてもらうのには交渉などがあるし、簡単にできることではない。大変だと思う。そこに踏み込んでいることには作品としても社会学的にも進んでいるし価値があると思う。映像作品は彼らとの距離が近いが、写真はとても客観的な視点になっている。確かに客観性があるほうが写真は格好よくなるけど、君にとって、その方が果たしていいのか?迷ったりしないの?引いて撮ることはサンプルとして撮ることになる。サンプルでいいならいいけど、でもそうじゃないと思う。」



補足をすると、写真作品は建物と人がやや遠目から撮影されたもの等もあり、どの写真も一定の距離を保って撮影されています。そこにホームレスの方々をどのような関係性や距離感で野口さんが関わっているのか、表現をしたいと思っているのかという、鋭い問いかけが飛びました。
野口さんは自分の気持ちは置いておいて、客観的に彼らを撮影するよう心がけているのだそうです。
そこに後藤氏は切り込みます。
後藤氏「自分のフィクショナルが介入してゆくことが嫌なんだと思う。その方向で、もう一発突っ込みがほしい。1人1冊ブックをつくるとか。最後のアウトプットがあっさりし過ぎてる。」

野口さんの死生観とゆう深い問いかけを写真作品が応えてゆくために、どうアウトプットしていくかという問題が浮かび上がりました。

作家は誰もが自己顕示欲によって、自分をさらけ出すことを目的に作品を作っているわけではありません。作品に”自分が介入する”ことについて、被写体との距離だけではなく、自身との距離感についてさえも考えさせられる講評でした。




最後は絵画棟の1階に移り、三野新さんの「あたまのうしろ〜play # 04〜」の講評です。



三野さんの作品は彼の率いるヒッピー部というパフォーマンスユニットの活動のドキュメントにもなっており、床置きの作品のほうは舞台を再現するような形でマケットが展示されておりました。
彼の舞台は、写真というイメージをもとにして人が動き、人が喋るパフォーマンスを作っています。はじめに物語ではなく、はじめにイメージありき。そこから生まれた言葉を分割したり、一緒にしたりしながら、写真に合わせてストーリーができていくという仕組みになっているそうです。また、舞台に写真を撮った写真家自身は登場しません。
後藤氏「ある種、写真論だね。」
その通りだと三野さん。しかし写真について考え舞台を作っていく中で、ジャンルの問題、演劇の方法論の問題などが生まれていったそう。
写真家の身体に巻き込まれつつも耐えられるような作品にしたい。と三野さんは語ります。



そこから後藤氏が写真の本質について切り込みます。
後藤氏「写真は不条理を含んでいるが、そこをどうするか、だよね。」
三野「写真は具体的なので、写真と向き合うことがすごく現実的なのかなあと。」
後藤氏「あとは役者、それだけでストーリー性が高い大物役者を使ったら面白いかも。エントロピー(※熱力学に基づく用語)が肥大するようなのができたらいいね。演劇的な素養はどこなの?」
三野「ベケットです。それは物語の問題としてです。身体性としては古いと思っちゃう。だから写真にすると面白いんじゃないか、と。写真としての強度を大事にしたいです。」
後藤氏「ナラティブになったらやだ。ステージでアタックしなよ。写真が現実を震撼させる方向がいいのでは?やなぎみわのようなものを逆から粉砕する。粉砕したいでしょ?」
三野「したいです。笑」

後藤氏は舞台のほうは見た事がないというのに、どんどん話が展開します。

写真の不条理性―死 ということについて、三野さんは写真のゴロっとした感触をただ提示するだけでも面白いのではないかと思う、と語っていました。
後藤氏も「面白いと思うよ」と共感なさっていました。

物語性に執着しないこと、そして写真の不条理性・・・。まとめるのが難しいほど、非常に高度な内容となっていました。





最後に後藤氏に東京芸術大学の卒業・修了制作展を見た感想としての総評をしていただきました。

後藤氏「丸の内アートアワードトーキョーのこともあって各大学の卒展は15校くらい見てます。毎年見てます。その上で、今回の東京芸大の卒展の傾向について思うこと。それは物語性の高い、ナラティブなものを表現の方法論にしてる人が多いなということ。それは優しいとも言えるが、逃げともとれる。林千歩(油画)の作品のように、妄想の強度でどんどんやりきってく方向もあるが、もっと思考実験に向き合うべき。きっとコンセプチュアルな作品でうまくいったという実感がないのだと思う。”話せばわかる”ではないものを作らないと。芸大って悔しいことに全体的に強度はすごいあるんだけど、決定的に”やられた”と感じるもの、新しいものってのはない。すごいやってるんだけどね。」


文章にするとなかなか厳しい指摘があるように感じ取れますが、実際のところ後藤繁雄さんはとても作家に親切で優しいという印象がありました。
作家の問題、作品の強度の問題などをすみずみまで指摘し、拾い上げて、その上で否定せず具体的な改善を共に追求してくださる姿にありがたく感じましたし、勉強することが多かったです。
自身も、論理的思考や、意識の作り方、もっともっと甘えないで活動してゆくぞという士気が高まり、いい経験ができました。


明日は昨年先端芸術表現科を退任なさった、高山登さんがゲストです。
明日をお楽しみに!


文責:林友深

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